島津家家臣団系図集(上・下巻)

1700年代初頭以降、
初めて纏められた島津家系図集。
超大作がついに刊行。

快挙の成功を祈る――。
三木 靖(鹿児島国際大学名誉教授・歴史学者)

武士身分総数17万、明治維新を成し遂げたわが国最強・最多の全家臣団の実体を明らかにすべく研究を重ねた、著者30年余の成果。

上巻・各家各氏一族分出略系図は、一族の始祖から、本家および2男家、3男家と次々に別立、分出を繰り返した各分家について、上級家臣の一門家、一所持、一所持格、寄合、寄合並から小番、御小姓与、郷士、家中士に至るまで、それぞれの系図を分かりやすく一望できるように編纂した。基本的に各一族本家の家格順に配置し、収録家数は約3500家である。主に幕末期までであるが、明治期以降の分も判明したものは記載した。

下巻・各家各氏詳細系図は、上級家臣の一門家、一所持、一所持格、寄合、寄合並の全家はもちろん、小番300家、御小姓与150家、郷士250家、家中士300家の合計約1100家について、1700年以降の判明した生没年、役職、婚姻関係、養子縁組などを詳細に記した。各家の家格順に配置した。

■4つの特長

1.1700年代初頭以降、初めて纏められた系図集
1700年代初頭に成立した『新編島津氏世録支流系図』(鹿児島県史料諸士系譜1〜3に収録)、『麑府諸家系図』(島津氏以外他姓氏家臣)以降、3倍以上に増加した各分家の実態は不明のままであった。本系図集は1700年代初頭以降、初めて纏められた系図集である。
2.各一族を一望し、各家の詳細を極める
上巻略系図は、一族の始祖から、本家ばかりでなく2男家、3男家と次々に別立、分出した各分家についても、上級家臣の一門家、一所持、一所持格、寄合、寄合並から小番、御小姓与、郷士、家中士に至るまで一望できるように編纂した。収録家数は約3500家。下巻詳細系図は、上級家臣の全家はもちろん、小番300家、御小姓与150家、郷士250家、家中士300家の合計約1100家について判明した生没年、役職、婚姻関係、養子縁組などを詳細に記した。
3.歴史研究家に必須の根本史料
歴史研究家にとって、研究対象の背景を知る系図集は必須の根本史料である。主要名家はもちろんのこと、さらに、これまで全く解明の糸口すらなかった各氏、特に種子島、樺山、北郷、吉利、大島、迫水、藤野、亀山、今給黎、川上、本田各氏については、そのほぼ全容を解明した。
4.先祖と平成の各家を繋ぐ
姓と代々伝わる口伝や文書によって、島津家家臣団としてのルーツが判明している家であっても、歴史的な位置や正確な血脈が不明瞭な場合がほとんどである。本系図集によって、先祖と平成の各家が鮮やかに繋がれてゆく。

編著者 野田幸敬
判型、他 B5判上製本(箱入り)
上巻524頁/下巻616頁

編著者紹介

野田幸敬(のだ ゆきたか)

1948年、長崎市生まれ。本籍地は熊本県。
1972年、熊本大学薬学部卒業。同年、熊本県薬剤師会勤務。1973年より1984年まで、現田辺三菱製薬勤務。
1994年、鹿児島に移住。小学校6年の頃より関心を持っていた島津家系図研究について、移住を機に本格的に着手。吹上町永吉南郷会、谷山郷土史研究会、日新公顕彰会等で島津家系図に関する講演多数。一方で、田舎暮らしと化学物質を使わない自然生活を追求する。
主な著作・論文
『島津一族全系図』全4巻(私家版)、「薩摩藩の家臣配置と島津一族」『家系研究』16号、家系研究協議会、「米沢藩上杉家臣島津氏」『南九州文化』26号、南九州文化研究会、「信濃の島津氏」『長野』125号、長野郷土史研究会、「島津中務大輔家久毒殺の謎」『歴史研究』475号、歴史研究会、「島津氏支族について」『家系研究』33号、家系研究協議会、「島津氏関連著作物の紹介」『家系研究』58号、家系研究協議会、「反西郷の雄、末弘直方」『家系研究』64号、家系研究協議会 他多数。

■推薦人

島津修久(島津本宗家 第32代当主) 
村川元子(種子島本家28代当主種子島時望長女)
島津博之(永吉島津家 第19代当主) 
米村秀司(島津伊勢守秀久(一所持吉利氏始祖)子孫)
調所一郎(天保の改革家老調所笑左衛門広郷直系子孫七代目) 
知覧哲郎(越前島津家分家知覧頼忠27代子孫) 
川上豊弘(島津家秘伝剣術薩摩影之流宗家 小番川上四郎兵衛忠兄直系子孫)
本田哲郎(永吉島津家家老本田丹波守親康子孫)

三木 靖(鹿児島国際大学名誉教授・歴史学者) 


■推薦文

在野の家系図研究家であり、私のところへも何度も訪ねてこられた野田幸敬氏が、このほど約40年にわたって関係者をつぶさに訪問して調査研究された渾身の家系図集を出版されるとのことです。島津分家三十数家はもちろんのこと、島津家を支えてきた家臣団に限らず、一時は島津家に対抗した家臣団までの家系図を網羅しており、それらの庶流の輩出状況まで細かく調査されています。明治150周年を迎えた今、この家系図集が多くの研究家や郷土愛好家の皆さんの参考になることを期待します。
(島津本宗家 第32代当主 島津修久)

待望の野田幸敬著『島津家家臣団系図集』が世に出た。後世に残る素晴らしい本である。野田氏は、心に祈りつつ各家を回り真実の系図を著した。私が上梓した『松寿院 種子島の女殿様』は、野田氏研究の系図を教えていただいたおかげで書くことができた。その間多くの種子島分家も過去と現代を繋げていただいた。各家の方々は勿論のこと研究者にとっても貴重な史料本である。野田氏の生涯をかけた誰もなしえない研究に心から敬意を捧げたい。
(種子島本家28代当主種子島時望長女 村川元子)

野田幸敬氏は、当家の歴代領主家族の墓地である天昌寺跡、梅天寺跡などをボランティアにて清掃管理いただいている永吉南郷会の会員でもあります。今般膨大な史料をまとめられ「島津家家臣団系図集」を上梓されたことに深く敬意を表します。
(永吉島津家 第19代当主 島津博之)

今から約三十年前、野田幸敬さんが家系図調査のため日置市東市来町に住む私の母(旧姓 吉利文)を尋ねてきたことがあった。私の母は、吉利家の初代秀久から始まる系図を持っていた。巻物で長さ約20メートルほどの系図には、福昌寺の68世から江戸の三田大中寺の44世に昇進した無著素宗大和尚(吉利用克 清七郎出家)、大久保利通日記に登場する吉利群吉(小松帯刀の弟)、島津久光の側用人だった吉利仲(海音寺潮五郎の著書にも度々登場)、皇室(高松宮)と陸軍の支援により中国の青島市で終戦まで運営された青島学院の創設者、吉利平次郎の名前が書かれている。さらに、私の実家の敷地内には島津家初代の島津忠久の母、丹後局の腰掛石があり、私の母の吉利家の家紋は、島津家の家紋と酷似している。野田氏の家系図研究は、これらの事実を考察して進められたのだろう。「島津家家臣団系図集」は歴史に残る大作だ。長年にわたる野田氏の地道な研究に敬意を表したい。まさに野田氏の執念で完成した大作だ。多くの歴史家の研究史料になるであろう。
(島津伊勢守秀久(一所持吉利氏始祖)子孫 米村秀司)

当家(薩摩藩家老・調所笑左衛門廣郷家)は、調所家全体から見ますと、分家の分家という傍流であります。したがって、家老に出世してからも本家である神職調所家には、よく報告的な意味合いでの書状を出していたことが分かっております。中には機密に属す内容もあったようで、そこには同じ一族としての信頼感もあったのでしょう。そうしたことも含めまして、薩摩の歴史を探る時に、大きな役割を果たすことが期待される島津の家臣団家系資料が本書であります。今から完成を心待ちにしております。
(天保の改革家老調所笑左衛門広郷直系子孫七代目 調所一郎)

自分の姓を意識した最初は、作家・高木俊朗のノンフィクション「知覧」(1965年)だった。「特攻のまち」として注目された知覧にはその後、知覧特攻平和会館の前身施設が建設され、2015年に刊行された「知覧の誕生」(福間良明、山口誠著)は「まち」が「特攻の聖地」「戦跡観光地」になっていく過程を描く。ただ、知覧氏の知名度は地名ほどに高くない。南九州市の「ミュージアム知覧」に掲げられている「知覧領主の系図」によると、幕末まで続く島津氏や佐多氏と違い、知覧氏は6代目までの名前が記されるだけで、「以下略」とある。急速に勢力を弱め、知覧から消えたらしい。知覧氏のその後の行方を、野田幸敬さんは平成にまでつないでくれた。刊行まで30数年を費やしたという、野田さんの執念に感謝する。
(越前島津家分家知覧頼忠27代子孫 知覧哲郎)

三十数年前、野田幸敬さんが、川上家の系図を調べに父川上矢吉を訪ねてこられた。それから縁があって妻千恵子と野田さんが坐禅友達となり、よく我が家に泊まっていただくなど家族同様のお付き合いをさせて頂きました。その折々、家系図調査のご苦労話を伺っていました。その野田さんの『島津家臣団系図集(上・下巻)』が、やっと完成しそうとのこと。ゲラ刷りを拝見し、川上一族だけで160家など、その壮大なスケールと克明な内容に感心させられました。この取り組みの成功と系図集の完成をお祈り致します。
(島津家秘伝剣術薩摩影之流宗家 小番川上四郎兵衛忠兄直系子孫 川上豊弘)

家系研究家の野田さんが、研究成果の集大成として労作を刊行されるとのことです。彼は若い頃より、勇敢に島津家などにも間断なく足を運び、生の資料を丹念に調べ上げています。今回は我々武家に仕える家臣団の家系までも掲載されるとのこと。大いにその出版を期待するものであります。
(永吉島津家家老本田丹波守親康子孫 本田哲郎)


■推薦文2

快挙の成功を祈る 
島津氏は国持ち大名で、幕末1852年、鹿児島城下士1万8654人、郷士・私領士15万2524人、武士身分総数17万1218人(尾口義男氏「薩摩藩の外城と人口」)を率いており、わが国最強・最多の家臣団を率いた。この膨大な家臣団の系譜を明らかにしようという野田幸敬氏『島津家家臣団系図集』の快挙が成功することを期待する。
         鹿児島国際大学名誉教授・歴史学者 三木 靖


■本書序文 「はじめに」

薩摩藩では江戸時代初期まで、島津家家臣団の系図類のまとまったものは存在しなかった。江戸幕府が第三代将軍家光の時代、寛永18(1641)年に、各大名・旗本家に先祖の由緒と系図の提出を求めた。これを受けて、当時の第2代薩摩藩主島津光久は、家臣が所持している文書・系図類を提出させた。これによって完成したのが島津本宗家の公式家系譜『新編島津氏世録正統系図』である。
一方、宮之城島津図書久竹は、寛文12(1672)年に国家老に就任するや系図類の編纂事業を引き継ぎ、家臣団の系図集をまとめるように指示を出した。そしてついに、正徳年間(1711年頃)に『新編島津氏世録支流系図』が編纂され、島津本宗家より分出した一族の系図集が完成した。
島津氏以外の系図集としては、ほぼ同時期の宝永年間(1704年頃)までに種子島氏、祢寝氏、肝付氏、鎌田氏、本田氏等、寄合以上の31家の嫡家の系図及び支族の分出状況を記した略系図が『麑府諸家系図』(東京大学史料編纂所所蔵)としてまとめられている。
これ以降、薩摩藩が手掛けた系図集は存在しない。しかし、正徳年間の藩士数は約1万6000人であり、幕末の藩士数5万4000人の約3割に過ぎず、この間、続々と別立(分家)を繰り返し藩士数は増加しているのである。
わずかに天保年間(1830年頃)に文書方がまとめたと思われる『薩陽武鑑』等、上級家臣寄合以上の各家の嫡家のみをまとめた武鑑類が存在するだけである。これは嫡家の流れを知るのがやっとで、膨大に輩出した分家の実態は不明のままであった。
筆者は、昭和60年頃より各島津分家や有力家臣の子孫の方を訪ね、現在まで30年以上にわたり正徳年間にさかのぼる系図類を収集してきた。また、薩摩藩、佐土原藩内の墓地のほとんどを調査してまわり、不明なところを埋めていった。
平成10年頃、島津帯刀家の御子孫、黒岡久尚氏を訪問する機会を得た。黒岡氏は貴重な史料を大量に所持されており、中でも寄合以上について詳細な系図集としてまとめた『薩陽諸家略譜』は、傑出したものであった。帯刀家の幕末期の当主、島津帯刀久直が明治中期までをまとめ、その子黒岡帯刀が大正9(1920)年までを書き継いだものである。この『薩陽諸家略譜』は印刷されたものではなく、当然に国内のどこの公的資料館にもない、いわば「幻の系図集」とも言えるものであった。
平成12年頃より『薩陽諸家略譜』に黒岡久尚氏と筆者の調べた系図を合わせ、寄合以下の小番、郷士も含めて薩摩藩全家臣の実態を明らかにしようという壮大な編纂作業に着手した。黒岡氏は平成24年に帰らぬ人となったが、ここに『島津家家臣団系図集』を刊行し、その全貌の一端を明らかにしたい。
                           野田幸敬


■編集部より

『島津家家臣団系図集 上下巻』は、まさに、薩摩藩政史研究における金字塔ともいえるものです。刊行によって、歴史研究が飛躍的に進んでいくでしょう。
例えば白洲正子の祖父は樺山資紀ですが、樺山氏は島津一族です。鎌倉期、島津家4代忠宗5男資久が樺山氏の初代になります。11代樺山久高は、1609年薩摩藩による琉球侵攻の総大将でした。この系図集によって、資紀、久高の家系的な繋がり、それぞれの父、祖父、はたまた先祖の生没年、地位、功績などが容易に把握できます。
こんなことがありました。豊臣秀吉が朝鮮出兵で渡海した軍事的空白を狙った大規模な決起があります。島津家の有力家臣・梅北国兼が肥後国佐敷で起こした反乱、梅北一揆です。秀吉を震撼させた一揆として、日本史研究者の間ではよく知られた事件ですが、高名な研究者が調べても、首謀者の梅北国兼が何者なのかはなかなか分かりません。編集中の国兼が記載された肝付一族梅北氏系図を示すと大変驚かれました。
肝付氏は伴大納言善男の4代兼遠を初代とし、その4代兼貞男兼高が梅北氏の氏祖に当たります。
実は、1700年代初頭に一度、家臣団の系図はまとめられています。しかし、それ以降300年間、各家が所蔵するのみでした。それを著者の野田幸敬氏が30年余をかけて収集・整理し、今回の刊行に至ったものです。
長く歴史研究家・愛好家の座右の書となるでしょう。

定価 (販売価格)

63,000円(税込68,040円)
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