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2005.12.28
人を思う
「人を思うことって美しいですよね」。映画『単騎、千里を走る』のドキュメンタリー番組の中で高倉健さんがこう語る場面に、思わずうなずいた。そうですよね、人を思いやるって美しい。なんだかこのごろ世の中殺伐としている。自分さえよければいい、という人が多くないか。人への思いやりはどこへ行っちゃったんだろう。思いやりって愛ある行為。相手に対する敬意でもある。敬意を払うという行為は、どこ行っちゃったんでしょう。いくら言葉を重ねても、敬意があるかないか、人は感じ取ってしまうと思う。
そこで思い出されたのが、記者会見の時のチャン・イーモウ監督と健さんのやりとり。会見場に入るのに監督も健さんもお互い相手にお先にと促しあっていた。情報番組のアナウンサーは美しい謙譲の精神、と語っていたけど、私はあれは相手に対する敬意と思った。監督は、映画の先輩で名優である健さんに対して、健さんは名監督に対して。その相手に対する敬意は、撮影中の様子にもうかがえた。健さんや監督がそうであるから、スタッフも共演者もみなさんそう。きっとすばらしい現場だったに違いない。
今度の映画は二人が15年間温めていた企画。疎遠だった息子の死期を知り、息子の思い(京劇の撮影)を遂げさせようと中国にわたりさまざまな人に出会うという父の物語だ。中国側のキャストはほとんど素人で、半ばドキュメンタリーのようなドラマ。どんな出会いが展開されるのか楽しみだ。健さんも演技とは何か、改めて考える機会になったらしい。思いやりあふれる映画になっていそうだ。
このTV番組で、健さんは中国でも人気が高いことを知った。開放以降『遥かなる山の呼び声』が中国各地で上映され、健さんはあこがれの存在という。言葉を超えて人柄の良さは伝わるもんだ。『単騎〜』も、新たな中国との架け橋になってくれそうだ。 (Kuro)
2005.11.29
◎手紙がうれしい
この10月、鹿児島で文芸雑誌を出し続けて20有余年の「随筆かごしま社」が、南日本文化賞を受賞した。代表の上薗登志子さんは、地元出版業界では有名な、大大先輩の出版人である。
受賞を知って、私はお祝いを言いたいと思った。電話でもなく、ファックスでもなく、もちろんメールでもなく、それは手紙でしかありえないと思ったのだが……、あいにく生来の筆不精である。鉛筆や赤ペンを握ることの多いこの仕事についてからは、字を書くことがますます嫌いになっている。なんということだ。編集者が字を書きたくないなんて。
自己嫌悪に陥りながら、そのうちそのうちと先送りにしていたら、とうとう贈賞式もすんだと新聞に出ていた。その記事を読みながら私は覚悟を決めた。そして、みっともない手紙を書いた。「遅くなってごめんなさい」
しばらくして、上薗さんからハガキが届いた。
「すっかり晩秋の気配がする雨の一日です。こんな日はしみじみと、お金はやっぱ無いよりは、ちっと有った方がよかような……」
いつもの調子に大笑いしながら、次の言葉につかまった。
「貴女のお手紙はとても嬉しかった」
大笑いは一瞬にして涙になった。上薗さんのそのひと言こそ、「うれしい」言葉であった。
書くことの幸せ。もらうことの喜び。
そうなのだ。手紙はこれこそが命。つたない文章でも、へたくそな字でも、気持ちを込めれば、ちゃんとその人に届く。だから手紙はうれしい。
7月から地元の新聞に、それこそつたない文章を書いている。たった700字ほどの短いものだが、何度も書くうちにいろんな人の目に触れる。この間、恩師やかつて担当した本の著者からハガキをもらった。返事を書きながら、手紙をもらうことの喜びに、しみじみと浸っている。
2005.11.29(編集者Tでした)
2005.11.14
旅、をしてきた
「旅」と「旅行」は違う、と聞いたことがある。「旅」は自分の強い意思のもとに行うもの、そして見えない何かに導かれるもの。その言葉に、当時大学生だった私はどんなに背伸びしても、その意味を理解できようはずがなかった。まだ見ぬ土地への漠然とした憧れだけを持っていただけ、そして、どこかへ行きたかっただけだった。もう、10年も前の話だ。昔、という言葉が私にもしっくりはまるようになってきている。
今年10月には母とともに3泊4日で東京に行った。メインは、私が愛してやまない歌手・池田綾子ちゃんの初となるワンマンライブに参戦すること。JR九州の新幹線つばめのイメージソングをずっと歌い続けてきてくれた彼女。この日のために、私は何度休日出勤したことだろう。しかし、それも全く苦にならなかった。
16日。上野を後にして、目黒のBLUES ALLEY JAPANを目指す。会場に着くと、私を見るなり、大きく手を振る人がいる。福岡出身のRさん。綾ちゃんの情報をいただくなどいつもお世話になっている。彼だけではなく、皆がハンドルネームで呼び合っている。綾ちゃんのファンは7〜8割が男性なのだが、非常に仲が良い。良すぎる……。同窓会並みなのだ。みんなで綾ちゃんのお祝いにと寄せ書きを集めたり、写真を撮ったり。仲間を探しに来ている。みんな心でつながりたいのだ。あったかい、みんな本当にあたたかい。綾ちゃんの心を象徴している。
綾ちゃんは私たちの心をさらに照らすかのように、温かくどこまでも伸びる声で歌い続けた。彼女はこれからもずっとずっと分け隔てなく与えてくれる、私たちの太陽だ。ステージ上から遠く鹿児島から来た私と母への配慮も戴いた。ありがとう、綾ちゃん。
今月も一人で京都に行ってきた(11/5〜6)。京都国立博物館で「最澄と天台の国宝」展が企画されているのを「新日曜美術館」の番組で知った私。自分に足りないものをいつも探しているうちに、なぜか最近は仏画に惹かれるようになった。来年には東京でも開催されるのだが、今回の京都の展示でしか「六道絵」を見られないと知り、京都行きを即決。
先述の綾子ちゃんのライブで仲良しになった京都在住のHさんに無理を言って、京都駅まで迎えに来ていただいた。普通、若い人ならば、「なぜに天台宗?」といって敬遠されてもおかしくないところを、一緒に興味を持って最後まで回ってくれた。展示内容は充実しており、楽しかった。「捨てる」という言葉の仏教での用い方に惹かれ、卒論に選んだことを思い出し全てはリンクしているのを感じた。
「徳を積みたいなどという我欲を捨てなさい。徳のある人はその欲から解き放たれても、そして本当に捨てたもののように思っても、まるでそこに最初からあったもののようににじみ出るものだから……」
博物館を出た後、自転車をお借りして既に暗くなった道を漕ぎまわった。Hさんは、もとサイクリング部。言うまでもなく健脚である。私もママチャリでがんばった。去年よりも体重7キロ減と、スポーツクラブ通いが功を奏した。上り坂では息が上がりながらもなんとかついていけた。有名な寺社をめぐり、水路閣、哲学の道、京大キャンパスへと向かった(ちなみに、小社の代表とHさんは年齢も学部も違うけれど、先輩後輩になる)。
京大の時計台は、なぜか私の出身大学を思い起こさせて、ノスタルジックな気持ちに。夜道をこぎながら、気分は大学生の私に戻り、「成蹊大の校歌を歌います!」と大声で熱唱。Hさんはきっとあきれながら、でも笑って聴いてくれた。京都の地で武蔵野のけやき並木を思った。空にはぽっかり、きれいな三日月が金星を引き連れて輝いていた。
Hさん、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
左の写真は、Hさんが取って下さった紅葉2枚である。鹿児島に戻って見返してみると、さらに紅く色づいていた。葉っぱでさえ、きちんと秋を感じている。時間が経過するのを惜しみ、慈しんでくれる。人間だって、きっとそう。温かいふれあいの中に、自分たちにしか見出せないものを拾い集めて、それぞれの言葉で表現をして、その言葉に近いものを探して生きていく。心を通わせていれば、また素敵な出会いを呼び寄せ、新しい自分へのパワーとエールに変わっていく。綾ちゃんがくれたいろんな出会いから、私は次に誰にどんな形で応えていこうかと思ってわくわくしている。
やはり、旅はそうありたい。これからも人との温かいつながりをいとおしく思える私でいたい。
「終わっても、終わっていない。終わったもののように感じても、それは決して終わらず、心に生き続けるものなのだ……」
(ふく)
2005.10.31
変わる街
鹿児島の陸の玄関口、鹿児島中央駅の隣にできた駅ビル、「アミュプラザ鹿児島」。
屋上にはシンボルとなる観覧車が、ライトアップされて街を照らしている。
去年は、市電に揺られながら、建設中のアミュプラザを眺めては、オープンの日を待ちわびていた。鹿児島の新しい顔になるかもしれない、とても大きな出来事のような気がして、不思議と興奮度が増していったように思う。
あれから一年。九月、アミュプラザは一歳の誕生日を迎えた。
アミュプラザの入り口付近のスペースを利用した「アミュ広場」。ここでは、今話題のミュージシャンのライブや、お笑い芸人のコント、芸能人のトークショーなどなど、この一年の間に本当に様々なイベントが行われてきた。そのたびに大勢の観客が押し寄せ、賑わう新たな場所になっている。
一方で、これまでの街一番の繁華街、天文館も、この一年で大きく変わったように思う。何といっても、お店の入れ替わりが激しくなった。これまで慣れ親しんでいたお店が閉店セールをしていたり、もしくはいつの間にか閉店し、空っぽの空間になっていたり。訪れる度に、街並みが変わっている。
これまで、変化は穏やかだったように思う。アミュプラザができたことで、何かしら影響があったということなのだろうか。
天文館の一等地に位置するファッションビル「タカプラ」の広告のキャッチコピーには、「天文館にも構造改革を」の文字が。
十月、この言葉の通り、タカプラはリニューアルオープンして、鹿児島初のショップがいくつも入り、話題を呼んでいた。
そういえば、ドルフィンポートもできたし、閉園した遊園地跡にも商業ビルができるという話もきく。
これからもっともっと鹿児島の街は変わっていくのだろうか。
新しいものに対する期待と、慣れ親しんだ街並みが変化していくことへの寂寥感。なんだか複雑な気分になったりする。 (坂)
2005.10.18
日常と非日常 見える世界と見えない世界
新聞で「田中泯 明日鹿児島でライブ」の記事を見つけ、「やったー」と思ったのは9月17日のこと。映画『たそがれ清兵衛』で異彩を放つ彼を観て以来、その舞踏、動きを生で見てみたいと思っていた。宮崎で公演があると知ったが、仕事で行けず、そこにこの話、しかも無料。引越しの筋肉痛はまだ癒えなかったが、行かない手はない。
翌日の夕方4時過ぎ、会場となった照国神社横の公園へ。結構、人が集まっている。すでに始まっていた。園内の池の向こう、島津久光像の下に彼はいた。台座にぴったり張り付いていて、少しずつゆっくりと動き出す。とてもゆっくりした動き。予測のつかない動きで、つい筋肉は大変だろうなと思ってしまう。茂みにきれいに納まったと思ったら、今度はなんと池に入ってしまう。あまりに自然な動きで、魚も驚かない。すうーと前を泳いでいく。池から上がると、クラシックからいきなり五輪真弓の「恋人よ」が流れる。動きに合わせて取り巻く人々も移動するのだが、ずぶぬれで寒がる彼にまわりで笑いが起こる。と、今度は観客に抱きついていく。犠牲者にまた笑い。そうしてだんだん動きは激しくなっていく・・・。
日常の場が非日常になっていく。お客は巻き込まれ、別な世界へ誘われる。ダンスというよりも、体の動きの表現といった感じ。パントマイムに近いかも。あの映画のぬらりとした動き、なるほど、筋肉の動かし方が違うのだな。
その10日前に、ピナ・バウシュの舞踏団にいたジャン・サスポータス(映画『トーク・トゥ・ハー』にも出演)のダンスを観る機会があった。まさにダンスの動きで、その動き一つひとつ、歩く姿も手の表現も美しい。鍛え抜かれた動きは無駄がない。その美しさに魅せられた。
パフォーマンスはいろいろだ。動きの表現が好きな私は、少林寺拳法で知られるリー・リンチェイ(ジェット・リー)の動きも大好きだ。動きといえば、チャン・ツイーも出ている『オペレッタ狸御殿』でもいろいろな踊りがありましたっけ。能舞台もあったりして。美しいものを集めた映画でしたね。やっぱり映画はやめられない。
(Kuro)
2005.09.22
◎新事務所のお披露目です
5年ぶりの引っ越しである。私が入社して5年間は、天文館に程近い小さな雑居ビルの一室に事務所はあった。飲みに行くには便利だったが、10坪という狭さでは何をするにしても、あっちにぶつかりこっちにぶつかり……。広くて環境もよくてと探し求めた次の事務所も、あっという間に手狭になった。
今度の条件は、何はおいてもとにかく「広いとこ」「広いとこ」「広いとこ」。
そうして見つかったのがいまの事務所。これがすごい。
とにかく土地は広い。鉄筋コンクリートの2階建て倉庫もついている。市街地からそれほど離れていないにもかかわらず、山の上なので涼しい。アプローチには石垣。スロープを上ると広い庭があって、木もいっぱい。セミの声や鳥の声がよく聞こえる。車もいくらでも停められる。中庭ではバーベキューができそう。何しろ、初めて見に来たときの私の感想は「別荘、いや社員寮にいいかも」。
さて、かんじんの社屋は……、確かに豪邸だ。玄関を入ると1間幅の廊下がまっすぐのびて奥の間の広縁につながっている。広縁は二股に分かれて中庭を望む。そこで昼寝でもしたら気持ちよさそう。収納もやけにたくさんある。収納スペースだけで2間くらいできそうだ。
ただ古いので窓枠や敷居がたわんでいて、開け閉めが大変。押入れには重いもの(つまり本)は入れられない(床が抜けそう)。環境がいいのはいいけど夜は暗くてこわそうです。ヤモリもたくさん住んでいる。これまでこの家を守っていたのだろうが、人間がきてあたふたしているのがちょっとおかしい。懸案は湿気対策かな。うまくいくといいのですが。
そんな社員の不安をよそに、すっかり気に入ってしまった社長。「ここがいい」と譲らず。とうとう9月9日、引っ越しは断行されたのでした。
ああ、その引っ越しの大変だったこと。なんといっても本がすごいんですから。コンクリートの倉庫に入れた「在庫」だけでも800箱。ほかに事務所内にも数え切れないほどの本が……。この5年間につくった本は、それまでとは比べものにならないほど多かったのです。
でも、たくさんの方たちのご協力で、何とか無事に終わりました。力仕事だけではありません。在庫本の置き場所を采配してくれた人がいました。ひたすら掃除をしてくれた人がいました。次の日もその次の日も来てくれた人がいました。本当に皆さんのおかげです。ありがとうございました。
2005.9.20(編集者Tでした)
補足─第2編集部は2階の部屋をもらったのですが、これがまるで離れ。聞こえるのは風の音と、どこかの学校のチャイムだけ。それでも社長の咳払いはよく聞こえます。
石垣のスロープ
立派な玄関。
ブルーシートは屋根の補修中。
バーベキューができそうな中庭です。
2005.09.02
戦没画学生の思い
日高安典さん。彼は、大正7年(1918)1月24日生まれ。昭和20年(1945)4月19日にルソン島パギオ付近で戦死されました。
私が彼のことを知ったのは、『種子島人列伝』(南方新社)の著者である井元正流氏が上梓した『藻塩草(もしおぐさ)』の編集に携わってからです。『種子島人列伝』は私が入社する前に発刊されたものだったこともあり、参考にするため何度か目を通しました。その中に彼は登場しています。
安典さんの遺された絵画やデッサンの中には、ひときわ目を惹く油絵の作品「裸婦像」があります。この作品は、今夏7月の「報道ステーション(テレビ朝日)」、8月の「新日曜美術館(NHK教育)」、「にんげんドキュメント(NHK総合)」で紹介され、私は運良く全て見ることができました。この絵は長野県の無言館という美術館に展示されています。戦没画学生の絵や、日記など貴重な史料を館長である窪島誠一郎さんがご遺族を訪ねてまわり、寄託された物ばかりが並んでいます。
「にんげんドキュメント」では、3人の画学生と作品にスポットを当てていましたが、その中で彼の「裸婦像」のルーツを追う窪島さんの様子が描かれていました。原画のデッサンは残っていないか、裸婦のモデルを務めた女性はいったい誰なのか。結局、わかりませんでした。しかし安典さんは、戦地から帰って必ずこの絵を完成させると言っていたそうです。そして、下宿先の幼い娘さんに後ろ向きのままで「女だったら良かった……」とつぶやいて出陣されました。そんなことを公言したら当時の日本では非国民扱いとなり、大問題となったのでしょう。しかし、若くして命を失った彼らの本当の心の叫びだったのではと思うと胸が痛みます。
『藻塩草』に登場する日高稔典(としのり)さんは、安典さんの弟さんにあたります。『藻塩草』での稔典さんは、「南種子のケ小平」と呼ばれるほどの豪快な人物として書かれていますが、『種子島人列伝』ではお兄さん思いの、そして、無言館の鎮魂の歌にもなったほどの短歌を詠まれており、繊細な一面は兄弟に共通としてあったと思わせるのです。
戦争のことを考えるのが日本では終戦記念日の夏に集中していますが、亡くなられた方々に季節は巡ってきません。彼らが生きていて全員が画壇で活躍したかは定かでないとしても、未来を選択する自由が奪われた。これだけは画学生に限らず、戦争で命を落とされた方々全てに言えることです。
私も『藻塩草』を担当していなかったら、戦争を自分の中に取り入れて深く考えることなく希薄な人生をすごしたのではと思います。もう少し自分に自信をつけて、戦争にまつわることを勉強し自分の意見をしっかり持って、いつか無言館を訪ねてみたいと思っています。できれば、夏ではない季節に。
(ふく)
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