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からいも畑から に戻る
2006.12.20
2006.12.19 残った一万円札12月16日、奄美大島へ出張。
かつて鹿児島市に道の島社という出版社を構えていた藤井勇夫さんが亡くなって2年半がすぎた。初めて田中一村に光を当てた書『アダンの画帖−田中一村伝』、奄美の料理を紹介した『シマヌジュウリ』、植物の解説書『奄美の四季と植物考』など数々の名著を残したが、事業としてはうまくいかず、さんざん借金をこさえて郷里の島に消えた藤井さんだった。
奄美では北部の村に郷土料理屋を開業したが、これまた客が来ず、開店休業の状態が続いた。それでも、若者には好かれていた。旅の若者に無料で宿を提供するものだから、口コミで訪問者は絶えなかった。そのまま村に住み着いたIターン者も20名ほどはいるだろうか。
藤井さんが亡くなったときも、駐車場の草刈り、家の掃除、炊き出し……、ことさら目立ちはしなかったが、あらゆることを若者たちが取り仕切っていた。
私が奄美についたその夜、偶然にも名瀬のライブハウスにその若者たちが集まっていた。島に住み着いた者はもちろん、東京、岡山からも駆けつけていた。私も喜んで合流。3時を過ぎていただろうか、深夜まで痛飲した。
帰ろうとすると、ごっちゃんという子が見送りに出てきた。もうろうとする眼で財布をまさぐり、1万円札を取り出した。それをいくつかに折り曲げて、彼に渡そうとした。
「若い者は金がいるだろう。少ないが取っておけ」
「いやいいですよ。気を遣わないでください」
「遠慮するな、俺は社長だ。飲み代の足しにすればいいだろう」
「いやいや、本当にいいですよ」
「何をいってんだ。命令だ取っておけ」
5分くらい押し問答が続いたかもしれない。最後はむりやり彼の手に押し込んだ。よろよろしながら、ホテルに向かったが、どういう風に部屋までたどり着いたかさっぱり覚えてはいない。
翌朝、なんだかいやな予感がした。財布を開いてみるが、1万円札は無くなっていない。2枚あったはずだが、ちゃんと2枚残っている。じゃあ、渡した1万円札は何だったのだろうか? 「いやな予感」というのは、紙幣とは微妙に違う紙の感触が指先に残っていたのだ。財布にはいろんな領収書が入っている。きっとその内の1枚を渡してしまったに違いない。なんてこった。
今思い出すたびに笑いがこみ上げてくるが、ごっちゃんにはあまりの格好悪さに、電話1本できないでいる。
2006.11.20
2006.11.17 弁護士からの手紙弁護士から書類が送られてきた。事務所の封筒がいかにもいかめしい。最初、そんな封筒を見たときは、ギョッとしたものである。本の内容が気に入らず、訴えるとでもいうのか、お金を払えとでもいうのか。封を切るのに気合が入った。
しかし、このごろはだいぶ慣れっこになった。この種の書類は4通目、どうせまた書店の倒産の通知だろう、と封を切る前から想像がつく。案の定、長崎のO書店が倒産。負債の金額を確定したいという連絡である。小社の取りっぱぐれがいくらあるか、返信せよというのだ。ご丁寧にも、「経営者にはこれといった資産はなく、自己破産の手続きに入るので、負債の取立ては不可能である」と追記してある。
このO書店は人口14万人の諫早で、アーケードのど真ん中に位置する一番の老舗書店だった。ご多分に漏れず、郊外にショッピングセンターが出来るとアーケード街からは人が消え、次第に払いも悪くなった。何回請求してもなしの礫。このところ、毎年4月に開かれる諫早干潟の集会に行ったついでに店に出向き、やっと集金させてもらっていた。今年は腰の具合が悪かったせいもあり集会は欠席。集金もパス。おかげで15万ほどパーになった。やれやれ、である。
いま、街から本屋がどんどん消えている。全国で3万店あった本屋さんが、ここ10年で2万店になった。毎年1千店廃業しているのだ。鹿児島でも、小社が開業して12年、50店ほどが消えただろうか。
人の流れが変わり、大型店やロードサイド型書店が進出すると、家業型の街の書店はひとたまりもなく潰れてしまう。取りっぱぐれは痛いが、それ以上に、書店の親父やお母さんの顔が思い浮かばれてしようがない。小社の田舎臭い本は、街の本屋にこそよく似合うのだけど。
1滴も降らない日が50日は続いただろうか、やっと雨が降った。その雨でジャガイモは甦った。鹿児島のことわざに「かいもとじゃがたは、へ(灰)で作れ」がある。サツマイモとジャガイモには灰がいい肥料になるという教えである。来週は刈り取った草を燃やして灰を作ろう。チンゲン菜や小松菜も急に元気になった。草刈機で草を払っただけの畑からは、去年のこぼれ種からいっせいに大根が芽吹いている。見ているだけでワクワクしてくる。
月末には、『奄美の絶滅危惧植物』が出来る。稀少な植物たちを初めて紹介する本だ。世界で数株しか発見されていないアマミアワゴケなど、宝石のような花がお目見えする。乞う御期待。
2006.10.19
2006.10.19 雨が降らない
秋冬物は、彼岸までに植え付けを済ますように。これは亡くなった父の教えだ。でもその言葉はなかなか守れない。今年の秋ジャガ6キロの植え付けも、1週間遅れてしまった。
春ジャガ好調の余勢をかって、秋ジャガで完勝、高笑いが我が南方農園に響き渡るはずだった。だが、どうも怪しい。植え付けが遅れたからではない。10月19日、今日のこの日になってもさっぱり雨が降らないのだ。昨日畑を見に行ったのだが、ちょぼちょぼと、種芋3個おきくらいに小さな芽が土をわずかに持ち上げているばかり。
彼岸前に2キロ植えておいたのは、すぐに芽を出し、今では立派な茎が頼もしげに突っ立っている。こいつは大丈夫なのだが、あとから植えた奴はどうもダメだ。
これほど雨が待ち遠しいことはない。隣の畑にオバちゃんが見回りにやってきた。オバちゃんの畑もおんなじで、芽を出さないので掘ってみたらジャガイモの種芋はすっかり腐っていたらしい。晴れ続きで地温が高くなりすぎたせいか。ヤレヤレである。
実は昨日は、たまねぎの苗の植え付けが目的だった。100本で600円。苗を仕入れて植えつけて、あとは丸々太ったたまねぎが実るのを待つばかり。収穫は来年の春、5月だから気の長い話だけれど、ちょこちょこっと草取りすればたんまりたまねぎが手に入るというすんぽうだ。だがこれも、植えながら絶望的な気になっていった。
鍬で耕して、堆肥を入れる溝を掘っていくのだが、もうもうと土ぼこりが舞い上がる。まるでテレビでよく目にする黄河流域の乾燥地帯の畑のようだ。こんなに乾燥した畑は、長年やってきてはじめてだ。植え付けのときだけはバケツに水を汲んで一輪車で運んでくるのだが、普段はそうそう水は掛けられない。雨だけが頼りである。どうなることやら……。
10月19日、倉庫の物件見学。建坪120坪で1100万円。湿気、立地ともに問題はない。借金を重ねて買ってしまうか、悩ましいところ。
出版社の90%が東京に集中し、出版物の95%が東京発。あらゆる情報と同じように本も東京から垂れ流されてくるのだが、印刷コストは極端に言うと鹿児島の半分で済んでいる。なにしろ印刷代も製本代も、東京は大量に作り競争も激しいからコストは下がる一方というわけだ。
コスト差に気がついて5年余。クリアする方法は自社倉庫の購入と分かっていたのだが踏ん切りがつかずにいた。中国ならもっと印刷コストは下がる。以前目にしたオーストラリアの本は「プリンティド イン ホンコン」だった。とっくの昔から国際化は進んでいたのだが、反グローバリズムを常々口にしながら中国で印刷なんて、ちょっと節操がなさ過ぎるか。
2006.9.22
2006.9.20 台風が来た9月17日、台風が来た。去年の9月9日に引っ越してきたから、丸一年と少しが過ぎた小社にとっての最大のピンチである。建坪70坪と大きいのだが、なにしろ築30年の古屋なのである。
幸い西にそれ、鹿児島が直撃を食らうことはなかったが、それでも暴風圏に入った数時間は強い風が唸りをあげていた。
翌日18日は敬老の日。朝から様子を見に会社に出向いた。
電気のスイッチを入れる。点かない。漏電である。ヤレヤレと思いながら、雨戸で締め切った真っ暗な室内を懐中電灯を頼りにチェック。梅雨時にいつもぽたぽた漏れていたところも大丈夫。雨漏りの被害はない。今度の台風は雨が少なかったから救われた。
外をぐるりとひと回り。案の定、瓦が30枚ほどひっくり返って、杉の平木があらわになっている。割れた瓦もある。なにしろ崖際の丘の上だ。さえぎるものもなく、風は真っぽし当たってしまう。屋根に上ってはげた瓦を置きなおしてみるが、しょせん素人。ガタガタである。手に負えないとあきらめて瓦屋さんに頼むことにした。でも応急措置が必要だ。なれない屋根の上をふらふらしながら青シートをかぶせ、土嚢を置いた。こう書くとあっという間の出来事のようだが、たっぷり半日は費やした。
19日は仕事の日なのだが、電気屋さんに漏電箇所のチェックをしてもらい、屋根修理の手配に追われたりで仕事にならない。おまけに少し前に発覚した漏水の修理に水道屋さんも来てくれていた。
20日、この日も仕事にならない、というか仕事をする気がしない。朝から草刈りである。ウイーンと鳴る草刈機は快調そのもの。以前から気になっていた草ぼうぼうの会社の庭をきれいに刈り上げることができた。
それにしても台風とは不思議なものだ。子供のころから楽しみで仕方なかった。学校が休みになり、海岸には思わぬプレゼントが打ち上げられていた。非日常の悦びとでもいうものであろうか。今でも、台風で数日は仕事にならず、おまけに少なからぬ出費を余儀なくされるのだが、それも簡単にあきらめがつく。
そうそう後で知ったのだが、台風の前日、読売新聞の全国版で小社の絵本『うんちねこ とむくん』が紹介され、台風の当日『奄美史料集成』が朝日新聞の全国書評欄に短評、台風の翌日『おかあさんのたまごのはなし』が南日本新聞に紹介されていた。こうした記事は、広告費にお金をかけられない小社にとっては、正直ありがたい。
これも小社への「台風の贈り物」なのだろうか。
2006.9.13
2006.7.15 ジャガイモ大豊作
高校を卒業して30年たった。記念同窓会をしようと最近よく同窓生と顔を合わすのだが、たいてい異様に腹が出ている。同じ同窓生の医者が(彼もたいそうな肥満なのだが)、脳梗塞や心筋梗塞、糖尿病の悲惨さを持ち出して脅すものだから、スポーツジム通いが続出するはめになった。
国内外の農民が汗水たらして作ったものを散々食べ散らかしておいて、食べ過ぎた分の余ったエネルギーを、動かない自転車をこいだいりして無駄に捨てるというわけだ。周りの景色も見ずに黙々と早足で散歩をする人も最近よく見かける。「もったいない運動」がマスコミにも取り上げられたりするが、スポーツジムや散歩ほどもったいないものはない。
同窓生の間でスポーツジムが話題に上がる度に、私は鼻でせせら笑うことになる。「俺なんか、タダで汗を流しているぞ。おまけにジャガイモを山ほど手に入れて」。
7月16日、晴天。春に植えつけたジャガイモの収穫をした。雪国の農家が、冬場に雪を掻き分けてキャベツや白菜を収穫しているのをテレビで見たことがあるが、夏場の南方農園では草を掻き分けなければならない。
3月下旬に植えつけた種芋は、順調に成長し立派な茎が伸びていた。収穫期の6月にもなれば徐々に勢いをなくし、同時に害虫のニジュウヤホシテントウの最盛期になる。いつの間にかすっかり葉っぱを食われ、終いにはツユクサやイヌタデに覆われてジャガイモの茎は消えてしまっていた。しかし、あれほど立派な茎を見せていたのだから、地中にはイモがごろごろ転がっているに違いない。種芋は4キロ。1つのイモを4つに切って植えたから、一株に1個稔るだけでも16キロになる。2個なら32キロ……。期待は膨らむ。
イモを掘る前に、小一時間、やぶ蚊の猛攻を受けながらまず草とり。さあ、とクワを入れる。あるわ、あるわ。ごろごろ転がっている。1株4個、60キロは収穫できただろうか。ワッハッハッハー。
4キロが60キロになる。15倍だ。このことを母に話すと、とうに死んでしまったじいさんは「百姓は百倍にする」と言っていたという。米は一株にどんなに少なくても百粒は出来るだろう。からいもは種芋から無限といっていいほど蔓が出て苗になる。大根でもチンゲン菜でも、一株から百粒とはいわず種が取れる。食って、汗を流して、また食う。人間は死ぬまで「永久機関」たりうることを実感した。
2006.8.15 田舎暮らし
8月17日、お盆休みもあけて出社すると、細々とした仕事が溜まっている。注文の本の発送やら、貰った手紙の返事など一つひとつは大したことはないのだが、まとまるとけっこう時間をとられる。ヤレヤレと思っているところへ、続けざまに何回も電話が入った。
対応していたスタッフに聞くと、電話の主は、大阪からやってきた団塊の世代という奴である。盆休みを利用して鹿児島を回っていて、来年4月の定年後にのんびり過ごせそうな田舎を探しているらしい。小社が『田舎暮らし大募集』という本を出しているのを聞きつけ、本を買うついでに話を聞きたいというのである。当方が訪問を受けるかどうかも確認せぬまま、道順を聞いている。交差点の度に電話をかけるものだから、五回も六回もスタッフは電話に振り回されている。我侭なことこの上ない。
小社は出版社であって田舎暮らしの相談所ではない。そんなことはお構い無しに、団塊君は押しかけてきた。過疎地の田舎者は相談に乗るのが当然、なんでも利用してやろうというような都会人の態度が鼻につく。まともに相手をした者がいたのだろうかと思いながら、「いい話がありましたか?」と水を向けると、飛び込みで訪問した役場はどこも盆休みで、担当者に会うことすら出来なかったらしい。
田舎回りをしている彼が高飛車なのにも理由があった。
2007年の団塊世代の大量退職が話題になっているが、過疎に悩む村では、その誘致活動も始まっているという。体験ツアーの誘いや格安での土地・家の提供。彼の元にもその類のダイレクトメールがぽつぽつ届いている。そんなこんなで、甘やかされているのである。
分単位で動き回り、多少の強引さがなければ生きていけない現役バリバリの都会のビジネスマンである。そんな彼がたとえ田舎に住み始めても、十年一日のごとく何も変わらずぼんやり間延びした田舎にいたたまれず、ほうほうの体で逃げ出すのにそんなに時間はかかるまい。
小社の『田舎暮らし大募集』は、都会の価値を捨てて、新たな価値を田舎に見出して欲しいと願ったものである。都会の価値をそのまま田舎に持ち込むことなど期待してはいない。
数を頼りに散々国中を引っ掻き回してきた連中が、今度は田舎にどっと押し寄せ好き放題引っ掻き回して、やがて飽きて都会に帰っていく。そんな構図が目に見えるようだ。
2006.5.23
2006.5.23 ホトトギス
事務所はシラス台地上にある。シラス崖の下には七窪の水源地があり、そこから溢れた湧き水が谷沿いに広がる田んぼにそそぎ込んでいる。
田んぼの間の小道が私の通勤の道なのだが、いつも道草をするので、なかなか会社にたどりつけない。5月に入るとイシガケチョウが飛び始めた。つい食草のイヌビワに幼虫とか蛹がいるはずだと探してしまう。2日前に発見した1センチくらいの幼虫が、今日見たら1.5センチくらいになっていた。あっという間に大きくなるこの成長の早さには驚かされる。途中のタブの木は、夏になればクワガタムシが集合する。まだ来てはいないかと毎朝木の周りをぐるりと見渡すのが日課だ。ここ数日、2匹のクロヒカゲが樹液を吸いに姿を見せている。クワガタとの再会の日も近い。(写真:2006.5.23に採集したイシガケチョウの卵)
最近の雨続きは、本が湿気を含んでヘロヘロになってしまうので気が気でないが、田植えには雨は欠かせない。雨にぬれた田んぼを見て落ち着くのは、遺伝子のなせる業か。
つい1週間ほど前には、今年初めてのホトトギスの鳴き声を聞いた。
「田植えはもう済んだか」「田植えはもう済んだか」
そう鳴いている。
何かの本にホトトギスは「テッペンカケタカ」「トッキョキョカキョク」と鳴くと書いてあり、私もずっとそう聞きなしていたが、去年、日吉に住む母とドライブ中に鳴き声を聞いたとき、母は「田植えはもう済んだか、と真似るものだった」と語った。たんに音の響きをなぞっただけより、毎年田植えの季節に渡ってくるこの鳥の習性を捉え、暮らしの一大事である田植えと結びつけた鹿児島の人々の方が、よっぽど上等に思えてくる。
「まっちょんちょげさ」と鳴くのは志布志のホトトギスだ。昔「まっちょん」という名の姉と、「ちょげさ」という名の弟が二人で暮らしていたという。姉は粗末な身なりをして、弟においしいものを食べさせていた。疑い深い弟は「自分の食べるものがこれほどうまいのだから、姉はもっといいものを食べているに違いない」と思い、姉を殺して腹の中を見てみた。ところが、唐芋の皮のようなものだけ。弟は後悔して泣いて泣いて山に入りホトトギスになった。
「まっちょんちょげさ、まっちょんちょげさ、まっちょんちょげさ」
そう千口鳴いて、やっと虫を一匹捕まえて食べるのだという。
この「まっちょんちょげさ」の話は、今年1月に刊行した『鹿児島ふるさとの昔話』(下野敏見著、1,890円)で仕入れたものだ。
2006.4.27
2006.4.26 春は野草
出版社にとって何よりうれしいのは注文の電話。痛めた腰を気にしながらでも重い本を運ぶのは苦にならないし、荷造りの手も不思議と軽やかになる。この季節、何を隠そう、山菜ガイド『野草を食べる』が絶好調である。
昨秋、あふれる在庫に追われるように郊外の古屋に引っ越したのだが、400坪もある広い敷地にはフキの大群落がある。春先には、仕事を放り出してフキノトウの収穫に精を出した。
今はツワブキが、いい具合に毛むくじゃらの若葉を伸ばしている。よく見ると、庭のあちこちにタンポポ、ヨモギにギシギシ、カラスノエンドウや藪ガラシなどの食べごろの若芽が勢いよく背伸びしている。
田舎育ちの遊びといえば、海や野山の食べ物探しに決まっていた。そんな私にとって、いまでもタダで食べ物が手に入るほどの喜びはない。自然に笑いがこぼれてくる。まさに『野草を食べる』は、私にとってのバイブルなのである。
自分の読みたい本を出すのが出版の基本だという。読みたい原稿を、自分なら手にとるだろうというしつらえにして本を作り上げるわけだ。だが、それがいつも売れてくれるとは限らない。
実は、このところ連敗続きである。明治初期、全国でもいち早く憲法草案を発表した民権活動家の山下彌平や、山川均が墓碑銘を書いた明治後期の社会主義運動家・濱田仁左衛門、戦前の無産運動家・冨吉栄二など、鹿児島で活躍した運動家がキラ星のごとく登場する『鹿児島近代社会運動史』。個人的には、なにをおいても座右におきたい基本文書なのだが、書店での反応はなぜかいまいちである。
世界の核開発の現状をリポートした『核拡散と原発』、与論島の移民の歴史まとめた『与論島移住史』、いずれもすぐれものだが動きは予想を大きく下回る。長い期間をかけてゆっくり売っていこうと気持ちを切り替えたのだが、人件費どころか、印刷費の回収もおぼつかない。
だが、捨てる神あれば拾う神あり。『野草を食べる』は、私の消えうせてしまいそうな自信をよみがえらせてくれた。
この本は、著者が三年かけて田舎の年寄りに昔ながらの食べ方をたずねて回り、それをまとめたすぐれもの。野山は食べ物で満ちていることがよく分かる。実際に著者自ら料理をしているから、解説も具体的だ。
春先のあくの多い野草は、弱った免疫力をグーンとアップさせるという。ついでに、弱りがちな小社の経営にも、大いに活を入れてほしいものだ。
2006.03.22
2006.3.22 出張続き
このところ出張続きだ。3月10、11日は徳之島、12、13日は奄美大島に行った。
徳之島は『徳之島写真集 島史(しまぶみ)』の営業。本はできたのだが、書店は島に4店しかない。手薄な地域の店に、それが八百屋さんであろうがコンビニであろうがかまわないのだが、本を扱ってくれるように交渉すること、それと空港と港に置いてくれる店を確保することが目的だった。
ごたいそうに書いたが、人口3万人、周囲100キロの広い島でも車で回れば何のことはない。仕事は数時間で終わった。後は島の友人と釣りである。秘密の釣り場に案内され、なんとキロ級のイスズミ4匹をゲット。早速1匹を刺身とあら汁に料理。釣りたてだから鮮度抜群、うまいことこの上ない。これだから釣りはやめられない。もう1匹は単身赴任中の別な島の友人にプレゼント、残りの2匹は奄美大島で世話になる友人へのお土産とあいなった。
奄美大島では、釣りの話に花が咲きすっかり盛り上がってしまった。すでに船の中から飲んでいたから出来上がるのは早い。翌日のシンポジウムは、遅刻はするは居眠りはするはで、いったい何をしに行ったやら……。
翌3月14日はいったん鹿児島へ。
3月15、16、17は佐賀出張、2泊3日のスケジュールだ。なれない車を運転して、おまけに寝たのが県庁横のテント。すっかりドロドロになって帰ってきた。佐賀の目的は「テントに寝ること」であった。
佐賀の玄海原発では、あろうことかウラン用の原子炉でプルトニウムを混ぜて燃やそうというプルサーマル計画が国と九電によって進められている。灯油用のストーブにガソリンを入れて燃やすことに例えられる超危険なしろものだ。事故時の被害も、通常の原発被害の4倍の規模になる。プルトニウム用の高速増殖炉「もんじゅ」が運転を開始したとたん大事故を起こしたものだから、プルニウムが余ってしょうがない。核燃料サイクルの破綻を隠すためにこのプルサーマルがあるのだが、やられるほうはたまったものではない。
それをいよいよ佐賀県知事が受け入れようとしている。3月11日から佐賀県議会最終日の23日までをめどに、地元の反原発グループが24時間座り込みの抗議行動を始めた。九州各県のグループにも支援の呼びかけがあった。渡世の仁義というやつである。仕事をサボってでも駆けつけなければならない。
田舎出版社は本を作るだけではない。出張中に釣りをしたり、座り込みをしたり、いろいろと忙しいのである。
2006.02.16
2006.2.15 割れなかったクス玉
寒い日が続く。南方農園も不作が続いている。
例年1月に蒔いた菜っ葉の種はそのまま成長し、菜の花の咲く3月4月までは収穫を楽しめるものだが、今年はどうもうまくいかない。せっかく芽吹いた双葉が霜にやられたのだろうか、黄色く縮れ、跡形もなく消えた。
もっとも、1月に小松菜や、チンゲン菜、白菜の種を蒔くのは邪道である。分かっていながら蒔くのは「収穫したら種を蒔け」という亡くなった父の教えがあるから。秋ジャガが草の中に消えてしまっていたのですっかりあきらめていたのだが、ためしに掘ってみたらなんとなんと、小さいながらもコロコロと顔を出した。掘ったあとは「父の教え」というわけで、菜っ葉の種を蒔いたのである。
そういえば11月に蒔いたシマ大根は、タンポポのロゼッタのように葉っぱを地面に這いつくばらせたまま、一向に成長する気配を見せない。
ヘボな、話ばかり続いたが、少しはちゃんとした野菜もできている。早い時期に蒔いたチンゲン菜は、下半身がでっぷり太った立派な出来栄えだった。キャベツも大玉が行儀よく並んだ。春の備えもぬかりはない。この前、農協でジャガイモの種芋(出島)を4キロ仕入れた。3月になればドーンと植えよう。ホクホクのジャガイモ、想像するだけでつばきが出てくる。どうだ。
ジャガイモといえば、早掘りの赤土馬鈴薯の産地は徳之島。高校野球では徳之島高校が県大会で準優勝し九州大会に出場。一回戦で敗れたものの、春のセンバツでは21世紀枠の期待が残った。
出場校発表の日、1月31日午後3:00。校長以下監督、部員らがマスコミの見守る中、固唾を飲んで電話を待った。お決まりの光景。しかし、ベルは鳴らなかった。準備されていた保育園の園児たち手製のクス玉も割られることはなかったという。私は徳之島の伊仙小学校を卒業した。ひそかに出場を期待していたのだが、しょうがない。ただ、園児たちのクス玉の行方がやけに気になった。
徳之島高校は打撃のチームだった。ときとして爆発する打線は、島の伝統行事闘牛に引っ掛けて闘牛打線と呼ばれていた。闘牛で勝てば、一族一党がワイド、ワイドと踊りまわる。負けても、勝ったほどではないにしても踊りながら退場するものだった。島の子らしく陽気にクス玉を割ればよかった。それができないくらい大和化したのかと気にかかる。
ちなみに、50年前から島を撮り続けた加川徹夫による『徳之島写真集 島史』を2月末に刊行する。島びとの桁違いの生命力があふれるすぐれものだ。
(写真・小社玄関脇にほころんだ紅梅 2月16日撮影)
2006.01.23
2006.1.23 違反者講習
みっともない話だが、チョビチョビ貯めこんだ交通違反の点数が6点になっていたようだ。先日、違反者講習の呼び出し状が舞い込んだ。
朝から夕方まで、丸一日がかり。午前中は座学で、午後からは社会参加活動だという。笑ってしまったのは、この社会参加ってやつである。さて何をするかというと、交通安全標語の書かれたプラカードを持って、交差点に立つのだという。あまりのあほらしさに笑うほかない。
かつて中国・文化大革命のころ、「私は堕落している」というゼッケンをぶら下げ、紅衛兵に小突かれながら行進していた人々を思い出した。
交通安全の標語が、なにかの役に立つとは思えない。しかし、いいさらし者である。交通違反の抑止効果は確かにあがるだろうとも思う。だからといって、何をしてもいいということにはならないだろう。人間性を傷つけることで効果を上げようというこの野蛮な懲罰は、最近の違反の厳罰化ともあいまって、秩序優先の薄気味悪い時代の到来を予感させる。
幸い、当日は土砂降りで、社会参加活動は屋内の救命講習(人工呼吸と心臓マッサージ)に切り替わった。違反者の中に、現役バリバリの救急隊員がいて、自ら手を挙げ率先して見本を見せてくれたのがおかしかったが、社会参加というお題目を掲げるなら、プラカードを持つよりよっぽど役に立つ講習だった。
さて、今『鹿児島ふるさとの昔話』(下野敏見著)を編集中である。2月末刊。懐かしい鹿児島弁が心地よい。祖父母の息遣いが甦ってくる。はやらせたい鹿児島弁
1.よんごひんご 2.ごろいと 3.こんわろ 4.いっそんこて 5.はっちた
2006.01.11
2005.1.10 新年を迎えて
拝啓 皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
2005年、南方新社も何とか1年を終わることができました。
かつて、「市場がどんなに縮小しようが、田舎の本の占める割合は売り場の半分にも満たないのだから、まだまだ拡大の余地はある」と強がっていたものです。そしてこの間、制作力の向上に注力し、年間30点はコンスタントに生み出せるようになってきました。2005年9月には、向こう10年間、在庫の心配をしないですむようにと、倉庫つき事務所への移転を敢行しました。
しかしながら、世間の状況は、確実に変化しつつあります。
春先に西日本新聞のコラムにこう書きました。「停留所でバスを待つ高校生は文庫本を片手にしていたものだが、今では暇さえあれば携帯をチョコチョコいじくっている。その下の世代も、大きく様変わりすることはあるまい。こうしてみれば、20年後、30年後のおおよその想像ができる。出版という業界そのものが、消えているかもしれないのだ。柄にもなく評論家のようなことを述べてみたが、20年、30年後のことなんて本当はどうでもいいことである。もともと若い世代に期待はないし、この私に仕事ができるのも、せいぜい10年余りなのだから。現在48歳。本を読まない若者を小ばかにしながら、後は高みの見物だ」。まだ若者にも市場にも楽観していたからこそ、こんなことを書けたのかも知れません。
しかしこの1年、市場の萎縮は、大型書店の登場という流通上の変化をともなって、急速に小社にもその現実を見せてきました。というのは、数年前なら確実に部数の読めていた書籍が、トンと動かなくなっているのです。
慌てず、騒がず。残るものは何か、必要な布石は何かをしっかり見定めて、一つ一つ腰をすえてかかっていこうと思います。
今年もよろしくお願い申し上げます。
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