2005.07.19
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からいも畑から に戻る
2005.12.27
2005.12.27 年末回顧
塞翁が馬 今年もいろいろあった。特に健康運に陰りがあったようだ。でも、物は考えようともいえる。
6月の交通事故はとっても痛かったが、入院中骨折した鎖骨を動かさないようにと、腹筋を使って寝起きしていたら、なんと、なんと、持病の腰痛がきれいに消えてしまった。おまけに、ここ数年厚くなる一方だった腹の脂肪も激減。すっきりなった。
12月には風邪をこじらせて気管支炎に。発作のときの余りの苦しさにタバコも吸えないでいたら、アラ不思議。30年間、ずっと止められなかったタバコがいつの間にかいらなくなっていた。
そうそう、8月には死亡保険に入ろうとしたところ、尿検査で糖、血尿、蛋白と3拍子揃ってチェック。あっさり断られてしまった。考えてみれば、検査はタダだったわけだし、不摂生を警告してくれて感謝するしかない。おまけに、死ななければもらえない保険料も払わずに済んでいる。
10月には、スウェーデンから本の注文があった。「お金は要りません。遠いところからご注文いただけて光栄です。ご笑納ください」と、お手紙をつけて本を送った。国内にタダで送ったりすれば商売にならないが、外国からの注文にはタダで送る。そんなに注文があるわけでもないし、第一、スウェーデンのお金とかドルとか、当方にとってみれば木の葉みたいなものである。本は売るほど沢山あるから大したことはないのだが、先方には随分喜んでいただいたようだ。スウェーデンのとってもきれいな風景の写真がメールで送られてきたし、年末には、大麦で作ったクリスマス用のリースと、おいしいアメを送っていただいた。
喜んでもらえれば、こちらの気持ちも、ほっこり暖かくなる。
〈南方新社2005年の10大ニュース〉
3月4日 3年がかりの大著『奄美学』完成。小社最高頁数631頁を樹立。g400円が基本価格。重量1100g余りで4,800円だ。ヨシ
3月10日 屋久島に上陸する伝説の大海亀物語『ジェーン』(KYT鹿児島読売テレビ編)刊行。KYTもCMで協力。連日連夜、南方新社の文字が画面で踊る。オオッ
6月1日 向原が深夜バイクで帰宅中に車と衝突。右鎖骨骨折で入院、2週間。イテテテテー
6月16日 沖縄に社員旅行。青い海と青い空は何処。連日土砂降りの雨、雨。それでも元気に、ボーダーインクの面々と遊ぶ。ワイワイ。
7月20日 『昆虫の図鑑 採集と標本の作り方』刊行。滅びゆく昆虫少年再生戦略の秘密兵器、3年越しで完成。フフフフ
9月6日 台風14号来襲。引っ越しをひかえた新事務所の屋根瓦が吹っ飛び水浸しに。ムムッ
9月9日 史上最大の引っ越し敢行。運んだ荷物はダンボール1200箱、しめて30t。これを業者に頼まず加勢人と自分たちでやり切ったのだ。スッゴーイ
10月15日 『地域と出版』(向原祥隆編著)が地方出版文化功労賞奨励賞を受賞。鳥取まで授賞式に出向く。ペコリ
11月20日 植樹祭を開催。新事務所の庭にみかんの苗9本を植える。秋の木市で1本1,000円也。庭は370坪もあるのだから植え放題。来春の木市では桃、梅、柿、栗・・・何買おう。ワクワク
11月27日 生命のまつり実行委員長。朝から飲んだが泥酔することもなく重責を無事はたす。ホーッ
12月7日 テキスト『かごしま検定』好調に船出。ご当地検定の鹿児島版。商工会議所が威信を賭けて実施する。小社は「ヒーヒー」言いながらテキスト作り。出来てヨカッタッ
2005.12.13
2005.12.12 壊れる田舎
秋も深まってきた。田舎道を車で走っていると、道端の黄色いツワブキの花と白い野菊の花が目に飛び込んでくる。
白い菊の花は、たいていサツマシロギクである。なんとも可憐そうな名前ではないか。この花、実は10年ほど前にはイナカギクという名で呼ばれていた。ひどい変わりようだが理由がある。専門家が詳細に研究したところ、南九州のイナカギクは別種であることが判明したのである。
同じ白い野菊の花でも、海岸近くに生えるのはサツマノギク。田舎道のシロギクよりひと回り大ぶりで、姿は気品があってりりしい。小社の植物図鑑『野の花めぐり全4巻』の著者・大工園認さんは、野草で県花の選定があったら本種が一押しだ、と語っていた。こちらも南九州でしかお目にかかれない。
東京で作られる(全国に流通している)植物図鑑は、関東圏を主対象にしているから、もちろん両種とも載っていない。鹿児島での普通種が載らず、逆に鹿児島に分布していないものが多く載ることになる。これでは使えない。小社が鹿児島の図鑑を作る理由がここにある。これまで植物、昆虫、貝、川の生き物などの図鑑を作ってきた。
さて、先日田舎の墓参りに行ったとき、あまりのショックに力が抜けた。墓地管理の一環なのかもしれないが、タブの木の根際にあったサツマノギクの群落が、無残に刈り取られていたのである。あたりには、いっぱい蕾を付けたままの茎がしおれて散らばっていた。去年私はそのサツマノギクの種子を、自分の墓の周りの土手に蒔いた。順調に芽を出し、花をとても楽しみにしていた。いくつかの小さな群落もでき始めていたのだが、彼岸過ぎに下手の墓の持ち主があたり一面に除草剤を撒き散らし、全部枯らしてしまった。この除草剤騒動には後日談があった。草のすべてが枯れ、地肌があらわになった土手である。雨にひとたまりもなく、やがて土手は大きく崩れた。
土手を裸にするなんて、田舎に住む者ならその危うさを知らないはずはないだろうに。除草剤が想像以上に強力すぎたのだろうか。そういえば、サツマノギクの群落のあったタブの木は、二年ほど前に根から1メートル残して伐られてしまった。ご丁寧にも、伐り株にはガソリンをかけて火がつけられていた。墓地の木は、暑い夏に涼しげな木陰を作ってくれた。それだけではない。神社の杜同様、神聖なものであったはずだ。
墓地の木を伐り、除草剤で土手を裸にし、蕾のいっぱい付いた野菊を刈り払ってしまう。田舎も壊れ始めているのか。
2005.11.08
2005年10月14日 鳥取行き
10月14日、鳥取へ向けて出発。なんと拙著『地域と出版』が、地方出版文化功労賞奨励賞を受賞。その授賞式が鳥取であったのだ。
滅多に県外に出る機会はない。せっかくだからと岡山で途中下車。岡山の同業の吉備人出版をたずねた。設立もほぼ同時期、出版点数も似たようなもの、売上規模もどっこいどっこいである。話をするだけでいろいろ勉強にもなるし、刺激にもなる。
土産の焼酎2本をぶら下げて、事務所訪問。焼酎を渡す。だが、その2本の焼酎瓶、鹿児島からずっと一緒だったこともあり気になって仕方がない。実はその銘柄の焼酎を、私はまだ飲んだことがなかったのだ。ちょっと味見をしましょうかと、早速封を切り味見。うまい、もう一杯。本作りの話はそっちのけで、すっかり腰がすわってしまった。結局、飲みにいった店にも持参し、土産はその日のうちに消えてしまった。なんてこった。山川社長、こんなもんです。焼酎にはめっぽう弱いのです。
10月15日、鳥取県倉吉市で授賞式。賞状と盾を貰って、その後講演会が設定されていた。私の持ち時間は30分。会社を創ってからこれまでの数少ない成功と、あり余る失敗談を適当にしゃべればいいと軽い気持ちで出かけたのが失敗だったか。
調子に乗って、大山さんのことを口走ってしまった。大山さんは、7年前ほど前に現れた謎の人物である。謎ではない、公安なのである。その話は、以前新聞のコラムにかいた。採録しよう。
「大山さん」
いろんな人が当社を訪れるが、普段は会えない人も来る。ズバリ公安が来たのだ。
話はこうだ。
彼はひょっこり、読者です、と訪れた。突然の訪問でも出版社たるもの、読者と聞いておろそかにするわけにはいかない。しかも何冊も買ってくれたという。
溜まった原稿を放り投げて、隣のローソンまでお菓子を買いにいき、お茶を出し、世間話の相手をした。聞けば、私が小学校のころ住んでいた同じ徳之島出身で、おまけに隣の集落だという。彼は大山と名乗った。島にも多い名前だ。
一気に親近感が増し、話は盛り上がった。小一時間ほど付き合っただろうか。
一週間ほど後、こんどは大山さんから電話がかかってきた。一緒に焼酎でも飲みませんかと言う。出版社たるもの、読者の誘いを断るわけにはいかない。
懐かしかろうと島料理を出す飲み屋に連れて行った。ひとしきり飲んで、まだ名刺を貰ってないことに気がついた。彼が差し出したその名刺には、なんと「公安調査庁」と書いてあるではないか。
はあ、と開いた口がふさがらず、酔いも一気に醒めた。
あらためて眺めてみれば、首も腕も太い。以前、公安はがっしりした体をしていると聞いたことがあるが、なるほど鍛えられている。仕事は土木関係だと言っていたが、何のことはない、仕事をしているはずの昼間は柔道で汗を流すのが日課だった。
やれ原発反対だの、諫早の干拓止めろだの、しつこく本を出しているから、どんなところか覗きに来たのだという。
小社は本を出すところで、何も隠すものはない。初めから堂々と名乗ればいいものを、読者です、と来るから話はややこしくなる。
さらに、これからも話を聞きに事務所に寄りたいとまで言う。あつかましいのにも程がある。わざわざお菓子を買いに行き、作り話に付き合わされたこちらの気持ちにもなってみろ、というものだ。
翌日、彼の職場に大山さんを訪ねた。外出中だという。これで、大山さんが本物の公安であることが確認できた。ついでに、伝言を頼んだ。「出入り禁止です」と。
今でもときどき大山さんのことを思い出す。もっとも、出身地もこちらに合わせたウソで、「大山」も偽名だろうけれど。
このとき初めて「公安」には、警察の警備担当と、法務省の公安調査庁があることを知った。ともあれ、私自身には印象に残る話だったのだが、どうも場所柄がよくなかったようだ。それまで、にこにこ笑いながら聞いていた人たちの表情が、「公安」と口に出したとたん急にこわばってしまった。「公安」にマークされているなんだか怪しげな出版社、そんな印象を与えてしまったようである。
冷え冷えと、異様に緊張した雰囲気の中で、いまさら途中で止める訳にもいかず、やけくそ気味で話し続けたのだが、やはり話す内容はきちんと準備すべきだったと後悔した。
10月16日、鳥取から鹿児島までは8時間。汽車に乗り込むのも気合が要る。ホテルを出て、しばらくウロウロとあたりを散策。大き目のスーパーに入ってみた。なんと、鮮魚コーナーには、地元の漁港で獲れた刺身用の魚が所狭しと並んでいる。量もさることながら、生きの良さとその種類の豊富さにはかぶとを脱いだ。鹿児島のスーパーでは、せいぜい5種類もあれば上等である。おそらく20種類はあっただろうか。毎日食べても、飽きることはなかろう。鳥取県人が急に羨ましくなった。
2005.09.22
2005年9月20日 怒涛の引っ越し
9月9日、引っ越し大作戦決行。いま振り返れば甘かった。とにかく甘かったの一言に尽きる。
倉庫に積まれた在庫の山を切り崩しながら、トラックに積み込んで新しい倉庫に入れていく。その数4万冊。後で勘定したらダンボール箱で830個にもなった。総重量約20トン。これを男手10人ほどでやり切った。当初、予定の男手は5人程度、心優しい手伝い人5人が来てくれなかったら、一体どういうことになっていたか。
運んだのは在庫ばかりではない。出荷スペースの本250箱。机周りの資料100箱。イス、机、タナ……。2トントラック2台が数え切れないほど往復した。
夜の7時から宴会の予定だった。もちろん7時に終わるはずもなく、作業は延々続いていた。宴会にだけ参加する予定で訪れた人も、そのまま作業に駆りだされ、とりあえず終了したのは夜の10時。ビールのうまかったこと! そして焼酎も! 深夜3時過ぎまで痛飲。
噴き出した汗は、何リットルになっただろうか。体重が4キロ減っていた。
9月17日、南方農園。6月の鎖骨骨折(バイク事故で入院)がたたって、畑は荒れ放題から未だに回復していない。夏場に草刈機で刈っても、すぐに元の草っぱらに戻っていた。でも、これからの季節は草の成長も鈍くなる。
彼岸までには済ませろ、といわれる秋・冬野菜の植え付けも、順調に進んでいる。秋じゃが、大根、白菜と植え付けは終了。後は何を植えようか。ニンジン、玉ねぎ、ネギ、山東菜、チンゲン菜、キャベツにブロッコリー……。草地を開墾すれば、土地はいくらでもある。1反の畑がやがて甦る。
9月20日、楽園めぐり。昼食には付近の食堂を利用する。早く終われば、つい事務所の周辺を散策したくなる。先週は、思いがけない楽園を発見した。事務所から200メートル下れば川が流れている。稲荷川という名の川幅3メートルほどの小さな流れだ。川の向こう側には、川に平行して用水路が引いてあった。この用水路沿いの小道がなんとも心地よいのだ。道端には椎や樫の木が生い茂っていて、涼しげな木陰を作っている。ふと見ると、道の上に木の実が落ちている。椎の実だ。しかも、通常の4倍ほどの大ぶりな実である。9月6日の台風14号で落ちたのだろうが、あれから何日もたっているのに潰れてはいない。結構広い道幅だが、車はほとんど通らないのだ。
この道は、営業マンの格好の休憩所となっている。コカ・コーラ、ガス会社、電気工事会社の車が、道端にぽつん、ぽつんと停まっている。
2005.09.01
2005年9月9日、引っ越すぞ
12年前、創業当時借りたのは、11坪の事務所だった。何もない部屋にぽつんと一人、えらく広く感じたものだった。
東京は人間の住むところじゃないとUターンしたはいいが、鹿児島に住むのは高校卒業以来のことである。ほとんど知り合いもいない。その寄る辺のなさも手伝って、なおさら広く感じたのかもしれない。
中古屋からとりあえず机を4つ買い込んだ。しばらくして、経理、編集と、スタッフも増えていった。といっても机の数だけ4人である。6年目、出版点数が50点ほどになったとき、ついに在庫でパンク。移動のときも、カニのようにヨコ歩きしなければならないほどになっていた。
2000年8月、現在の事務所に越してきた。40坪の民家。以前八百屋をやっていただけあって、広い土間が在庫スペースにちょうどいい。すっかり馴染んだのだが、点数が160点を超えたいま、パンク寸前である。駐車場を倉庫に改造したが、1年ともたなかった。新刊ができても、置くところがない。かくして、事務所探しを半年前から開始した。
紆余曲折を経てたどり着いたのは、370坪の土地。市街からかなり離れた山の中である。在庫のために高い土地代を払うのはもったいない。必然的に地価の安い郊外になった。
ここのいいところは、タダで家がついていることだ。なんとそのタダの家は、70坪もある。一時期当たった建設会社の社長が、金にあかせて作った豪邸である。鉄筋の30坪の倉庫もおまけで付いている。
一つ心配の種がある。件の建設会社は潰れ、豪邸は競売に。次の持ち主も建設会社の社長だったが、倒産、競売となった。倒産づいているのだ。まあ、しみじみと本を作って売るだけの南方新社だから、大げさな倒産などとは縁はないだろうが、坊さんを呼んでお祓いだけはしておいた。
引っ越しは、9月9日金曜日。汗を流してビールを飲むぞ。
2005.08.03
2005年8月1日 クワガタ採り。
やらなければならないのだが、なんとも手のつかない仕事がある。
1400ページもある超大物だ。ここ3週間ほど、ずっとやらなければと、のどに引っかかった小骨のように気になり続けている。普通の本が200ページ、大物でも300ページを超える程度だから超大物振りがよく分かろうというもの。
千里の道も一歩から、とにかく前に踏み出さなければ終われないのは分かっているが、手がつかない。
小さな仕事から片付ける、これは長年の流儀だった。大きな仕事一つに、小さな仕事十あるとしたら、小さなものから片付けたほうが確実に能率が上がる。大きな仕事で手間取っていたら、すべてが糞詰まりを起こしてしまう。小さなものを片付けて、大きな仕事は、時間を作ってエイヤッと終わらせてしまうわけだ。
ところがあまりに大きすぎると、エイヤッとはいかない。数日籠ってやっと少し進む仕事だ。ほったらかしにしているうちに、仕事の手順も忘れてしまっているから、余計遠ざけてしまう。
平日は、電話やら訪問客やらで中断される。電話や客が、ただあるだけなら問題はないが、そのたびに仕事が増える。超大物はいつの間にか、ヒマラヤのように立ちはだかっていた。
先週の土曜日は、朝からヒマラヤに挑む予定だった。寝坊をして出社は12時過ぎ。暑いから缶ビールで体を冷やす。1本の予定が2本になり3本に。いい気持ちになった。よっし、久しぶりにクワガタ採りに行こう。会社のある団地の周りは雑木林。以前からめぼしをつけていたタブノキやクヌギの木がある。何カ所もある。こうして、大判のクワガタ3匹を手に会社に帰るころになると、すっかり仕事をする気はうせていた。
いったい何をしてるんだか……。
2005年7月19日 蔓ものは根が弱い。
週に一度は、鹿児島市から車で40分、実家の畑に行く。
77歳になる母が一人暮らしをしているので、その生存確認の意味もある。「おーい、生きているかー」が、訪問の挨拶代わり。
もう一つ重要な仕事もあった。墓参りである。私が特別信心深いわけではない。当地の田舎では、墓に花を欠かしてはならないということになっている。花がしおれていれば、なんと先祖をないがしろにする家だと、村中の非難を浴びる。腰の曲がった母の足では、1キロ離れた墓に行くのも難儀であろう。夏場は、1週間もすれば花は枯れる。いつの間にか、墓参りが重要な私の仕事となった。
7月18日、海の日。畑に出てため息をつく。交通事故で入院していたせいもあるが、ひと月あまりほったらかしにしていた畑は、見るも無残。
植え付けは遅れたが、まあまあの成長を見せていたジャガイモはすっかりツユクサに覆われている。痕跡を探すが影も形もない。トマトは健気に実を付けていた。支柱を付ける間もなく大きく伸びたトマトは草の中に倒れ、草を掻き分け赤く熟した実を拾い取ることになった。半分以上が収穫期を過ぎて腐っている。後で母に話すと、「台風が来たら、わが家の勝ちよ」と、励ましてくれた。きちんと支柱にくくりつけているトマトより、草の中に倒れたトマトのほうが、被害が少ないというわけだ。ものは考えようか。
ナス、ピーマン、スイカは、ほぼ全滅。意外な収穫はニラ、それとキャベツが草の中に玉を付けていた。きっと、蝶蝶も見つけられなかったに違いない。
気を取り直して、この日は3分の2以上を占めるただの草っ原を草刈機で刈ることにした。草っ原の畑なんて、どうにも体裁が悪い。炎天下、草いきれで何もしないのに汗がにじみ出てくる。骨がくっつきかけている右鎖骨の上にちょうど草刈機のベルトが当たる。作業開始は午後3時10分。調子は上がらず、ものの20分ほどで汗が吹き出し、息が上がる。日陰で休憩しようとすると、今度はやぶ蚊の猛攻。水をがぶ飲みして草刈。また20分ともたない。やぶ蚊を払いながら水を飲む。気分を変えるため、肥料の効かない小さな葉っぱを草の中に揺らしていたサトイモ地帯に移る。サトイモを傷つけないように草を刈る。10分でヘロヘロだ。水を飲んだら、持っていった1リットルのペットボトルが底をついた。終わり。
作業時間1時間、流した汗1リットルであった。
実家でお茶を飲んでいるとき、「シルバーに庭先の草取りを頼んだら、キュウリの根元の草まで取ってしまった」と母が嘆いていた。蔓ものは根が弱いので、根元の草取りはタブーなのだという。案の定、5本のうち2本の蔓が枯れてしまった。いい事を聞いた。
2005.07.01
2005年7月1日 交通事故から復帰しました。
のっけから、事故の話で失礼。
私の足はバイクだ。道が込んでいてもなんていうことはない。燃費もリッター25キロくらいだから、車よりは罪悪感が少ない。寒い冬や雨の日は難儀だが、我慢できなくはない。
学生時代はよくこけていた。1年に1回は天と地が逆転する不思議な感覚を味わったような気がする。それでもなぜか怪我はなかった。最後にこけたのは26歳のとき。22年間何もなかったものだから、このままずっと事故とは無縁だろうという気さえしていた。それは甘かった。
思い起こせば、6月1日深夜11時過ぎ、やっと仕事も一段落付いて後は帰って風呂に入って焼酎を飲むだけと、うきうきしながらバイクで帰宅途中のことだった。雨上がりの風の心地良いいつもの帰り道、交差点で車の近づくのがライトの灯りで分かった。こちらのライトも見えるはず、こちらはメインの道路、向こうは停止線もある。出てこないだろう、待つだろうと思いきや、何とそのまま車のライトが車線に出てきた。
何てこった、急ブレーキ。警察の現場検証によれば6メートル前からブレーキ痕とのこと。路面が濡れていてさらに前輪後輪ともロックしたのだろう、すってんころりとスリップ転倒。バイクは車にガツン。私は気が付くと、ヘルメットがガガガガと地面をこすっているのが聞こえていた。
救急車で病院に運ばれレントゲンの結果、右鎖骨骨折。最初は痛みで寝返りもできない。夜も眠れず、2日間くらいは意気消沈していた。それでも日に日に痛みも取れていった。
今回のこの事故で、寿命が20年ほど延びたような気がする。調子に乗って走らないということだ。相手の車も、自分のハロゲンヘッドライトが明るすぎて私が交差点に近づいてくるのが分からなかったという。交差点では頭を出さないと左右は見えない。しようがなかったということだろう。私がのろのろと走っていたら避けられた事故だった。首でも折っていたら、家族はいまごろ仏壇に手を合わせていただろう。
7月1日、あれからひと月たち、骨もだいぶくっついてきた。仕事もいつものペースに戻ったように思う。入院のおかげで返事が遅れ、出版の話が一つ飛んでしまったが、もともとなかった話だと思えば気にならない。
それにしても、この世界では人間が制御できないスピードがごく普通になっている。そして交通事故は決してなくなることはない。だとすると、交通事故は不慮の事故などではなく、制御できない機械をもたらした者が仕組んだ災難だということにならないだろうか。
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